中島義道「哲学の教科書」1

哲学の教科書 (講談社学術文庫)
おそらく、第三章の「哲学の問いとはいかなるものか」が哲学の本質的なことだろう。もし私に哲学者としての資質があれば、それらの事柄についてとことん考え抜くのだろうが、幸か不幸かそういう資質がない。よって、いつものごとく気になった箇所だけをピックアップする。


第二章「哲学とは何でないか」からの抜粋。

哲学者は『われわれがもっている宇宙』の謎にひっかかっており、それが不思議で不思議で仕方のない人種ですが、芸術家は『もう一つの宇宙』に望みをたくしている分だけ、眼の前の世界に対する真剣な問いかけをしません。私は、絵画にしろ彫刻にしろ文芸にしろ一般にグロテスクな世界をめざすような作風の芸術家を好みませんが、それはわざわざ奇妙な世界を構築しなくとも、身のまわりの世界がすでに充分グロテスクであるのになあ、と思うからです。

常世界の堅牢さに何の疑いも抱かずに、作品の上だけで必死にグロテスクさを求めることはもっとも哲学から遠いことらしい。だから、絵画ではシュールレアリスムの絵やルドンやギュスターヴ・モローの絵など、文学ではポー、上田秋成三島由紀夫寺山修司渋澤龍彦などは哲学的ではないという。
もちろん哲学的であろうとなかろうと、そんなことは芸術的価値とは何の関係もないことだが、「日常世界」がいちばんグロテスクだという指摘には同感。
個人的なことだが、目の前に広がっている時空間(日常世界)が正体不明であるということが身の毛もよだつほど恐ろしく感じることがある。自分を取り巻いている世界について、自分を存在させ死滅させる世界について、その正体を知ることなく消滅してしまうことに恐怖を感じる。私を存在させている、この時空間の広がりは一体何なのだ?
(思えば、小学校5年生のとき落雷に打たれたように感じた存在の恐怖を、まもなく五十になるという歳まで引きずっている。しかも、いまだに解くことができない。まったく何ということだろう。ちなみに、パニック発作と同じ症状がこのときに発現している。ということは、私のパニック障害は後天的なものではなく、先天的なものということか。もともと体質として保有していて、何か強いストレスや恐怖を感じるとスイッチを押されたように発現するのだろうか)