中島義道「哲学の教科書」2

牛肉と馬鈴薯・酒中日記 (新潮文庫)
昨日の続き。
現実世界が十分にグロテスクなのに、なにもわざわざグロテスクな虚構を構築することはあるまいという趣旨であった。では、中島が好ましく思っているのは何か?



マチスの上品な室内、ボナールの暖かい光に充たされたテーブルやバルコニー、デュフィの清涼とした音楽のある部屋、クレーの夢のような色彩と形態の世界など、「思想」や「哲学」のかけらもなくて ― ないからこそ ― じつに気持ちのいいものです。こうした世界が哲学的でないことは本当によいことだ、とシンから思います。
(中略)
『ピーター・パン』や『雪の女王』や『銀河鉄道の夜』は、日常世界はそのまま不思議な世界であることを子供たちは知っている、という信念からサラリとグロテスクな世界への通路を描いている。

また、次のようにも言う。
「べつに宇宙的なことが哲学的なことの絶対条件ではない。ほかの天体からはじめて地球の光景を見るように、新鮮な驚きの目で日常の周囲世界を見ることが、哲学的だということです」
そういえば国木田独歩も「牛肉と馬鈴薯」の中で同じようなことを言っていた。
「びっくりしたいというのが僕の願いなんです。(中略)宇宙の不思議を知りたいという願いではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願いです!」
結局、詩人も哲学者も「たった今誕生した赤子の目で宇宙を見たい、感じたい、驚きたい」ということだろう。習慣や固定観念や常識的な感じ方・考え方などすべて振り払い、新鮮な感覚で宇宙を感じたい、と。
その結果、星の瞬きほどの人間の生に奇跡的な歓喜をおぼえるのかもしれないし、あるいはグロテスクな実相に恐怖するのかもしれない。どちらにしても日常世界の習慣の中に埋没して、意識を眠らせているよりはいい。