「スクリーンそのものが消える」

珈琲

6日、NHK爆笑問題のニッポンの教養」に哲学者・永井均が出演して「私はなぜ私なのか?」について語っていた。そういう哲学の難しい話は私にはわからない。でも、ちょっと心に引っかかる言葉があったので紹介してみる。
「たとえば、他人の死というのは映画の中の登場人物の一人が消えてしまうようなことなんだけど、自分の死というのはそれとはまったく違う。いわば、映画そのもの、スクリーンそのものが消えてしまうことなんです」
これはよくわかる。ふと自分の死を意識したとき、このイメージが心に浮かんでドキッとすることがある。スクリーンそのものが消えた後に何がくるのか。まったくわからない。その後の状況について底なしの闇をイメージしてしまう。いや、何かイメージできればまだいい方だ。何もイメージできないまま不安感だけが膨れ上がっていくと、パニック発作を起こしそうになる。
「自分の死とともに世界そのものが消えてしまう」 もちろん、そんなことはない。私が死んでも世界はその後も存在し続けるだろうし、宇宙は膨張し続けるだろう。そして太陽は毎日飽きもせず四方を照らし続けるだろう。しかし、本当か? 本当にそうなのか? あ、やばい。これを考え続けていると、またパニック発作を誘発しそうだ。
何事によらず、自分に執着しすぎると狂気が忍び寄ってくる。ほどほどにしよう。そして今夜は、近代の詩人の知恵に耳を傾けることにしよう。われわれは生まれてくる前の世界へ還る旅をつづけているだけなのだ、と。そう信じて安らかな眠りに就こう。
(写真はフリー素材。[フォトライブラリー]より)