正宗白鳥「作家論」

白鳥の評論は歯切れがいい。以前、「自然主義文学盛衰史」をおもしろく読んだけど、この「作家論」もおもしろい。

「二葉亭について」
彼れは、実際界においては夢想家であったのだが、芸術家としては、空想力が極めて貧弱であった。文学を一生の事業とする気にならなかったのは、自己を知る明があったといっていい。私なども、一生懸命に骨を折って、そして、貧弱無味な作品を作り上げて、自己の無能を嘆息することが多いので、二葉亭の作品を読みながら、身につまされるのである。私は明治二十年代の作家のうちでは最も二葉亭に敬意を寄せている。最も親しみを覚えている。  
「岩野泡鳴論」
泡鳴は、才気は乏しかったが、物事を誤魔化そうとしなかった。頭脳は不明瞭であったが、読者に媚びようとはしなかった。おれはこうだと臆面もなく自己を出している。後人にどう思われようとも、彼れは作家としては悔いるところのない生涯を過した訳だ。「首が飛んでも動いて見せるわ」といった伊右衛門の意気は泡鳴にも見られた。 
志賀直哉葛西善蔵
今、「葛西善蔵全集」を披いて、幾つかの短篇を続けて読んで、私はウンザリした。「暗鬱、孤独、貧乏」の生活記録の繰り返しであって、それが外形的にも思想的にも単調を極めている。(中略)氏の創作力の貧しさに、私は驚いた。とにかく四十余歳までの生涯を文学に託して、呻吟苦悩、こういう作品をこれだけしか書き上げられなかったのは悲惨に感ぜられる。(中略)
しかし、それにも関らず、「葛西全集」は、現代の日本の文壇に存在を価いする資格は有っているのである。才気に乏しいかわりに彼れは自己の芸術に誠実であった。当て気や通俗味は薬にしたくもなかった。(中略)しかし、飲んだくれに有りがちの、飄逸さ、多少身に帯びていた仙骨が、彼れの暗鬱鈍昧な作品に、芸術の光を差させているのである。 

明治期、頭脳明晰で文才に優れた鴎外・漱石などがいるにも関わらず、白鳥が好んだのは二葉亭、花袋、藤村、泡鳴、善蔵などの文学らしい。その理由を「私は才不才、能不能よりも、人間の態度に、時としては一層多くの敬意を払うことがある」と述べている。

新編 作家論 (岩波文庫)

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