洲之内徹「桜について」

香取市役所裏の桜

東京の桜は満開らしいが、神栖市の桜はまだ5分咲きといったところか。花見をする習慣がないので桜にまつわる思い出はないけれど、読んだ本の中に忘れられない桜の情景がある。
洲之内徹の「気まぐれ美術館」というエッセイ集の中に『桜について』の章があり、ここにわずか十数行だけど、桜についての思い出が語られている。うっかりすると読み飛ばしてしまいそうなぐらいなんでもない風に書かれている。でも、これが一読して忘れがたい情景なのである。
終戦の翌年の春のことである。洲之内徹は妻と子供二人をつれて、北支の山西省から引揚げてきた。山口県の仙崎へ上陸したのだが、ちょうどそのころ、あたり一帯は桜が満開だった。生後六か月の次男がはしかに罹ったので、一家は患者収容所に入る。収容所といっても、町なかにあるお寺・極楽寺の本堂である。

そこの寺の門前にも一本の満開の桜があって、花吹雪が風に乗って通りのほうまで飛んで行くのだったが、ある日、私がその木の下に立っていると、港のほうから、いま復員船から上ってきたばかりらしい兵隊が二人、駅へ行こうとして、つれ立ってその道を歩いてきた。彼等は銃を持たず、丸腰だという以外はすべてもとの兵隊のままの姿で、ただ、どちらも大国主命のように、肩に大きな袋を担いでいた。寺の前までくると、ひとりが花を散りこぼしている桜の梢を見上げて、もうひとりに、
「おい、夢のようだなァ」
と、言った。そして、二人で桜を仰ぎながら通りすぎて行った。
「夢のよう」という使い古されて殆ど無意味になってしまった言葉が、あんなに生々と、感動的に使われるのを、私はあのとき限り、前にも後にも聞いたことがない。彼等にとってはほんとうに、文字通り、夢のような心地だったろう。

(写真は昨年の震災後に撮影、香取市役所裏の桜)

気まぐれ美術館 (新潮文庫)

気まぐれ美術館 (新潮文庫)