北杜夫「母の影」

母の影 (新潮文庫)
高校生の頃「どくとるマンボウ」シリーズを愛読したものだが、その後、ずいぶんご無沙汰してしまった。たしか、「楡家の人びと」の下巻の途中で挫折したのだ。冒頭から登場人物が生き生きと描かれている箇所は楽しかったのだが、戦時の記録が長々と続く記述に耐えられなかった。今なら、退屈な個所はさっさとビデオの早回しのように飛ばしてしまうのだが、若いころは一字一句、律義に読んでいたのだ。
今回、久しぶりに北杜夫の文章を読み、懐かしくして仕方がない。文章も、ユーモアのセンスも健在である。
たとえば「死に給う父」の章。父親・斉藤茂吉の仏壇を買いに行く件など。

かなりの歳月が経ってから、浅草に仏壇を買いに行った。ところが、どの店で売っている仏壇も、いかにも高級そうな黒塗りで金ピカの入ったものであった。雷親父ではあったが、万事につつましかった父にふさわしくない。なんとか白木のようなものを見つけようとして、あちこち歩き、同行した編集者に、
「あった。あれだ、あれだ」
と、言うと、
「北さん、あれは神輿ですよ」
と、言われた。

30年ほど前、北氏が「徹子の部屋」に出演していたのを見かけたことがある。そのとき、どういう理由か知らないが、北氏は指にセロファンテープを巻いていた。テレビカメラの前に両手を広げると、その両手の指すべてにテープが巻いてあった。もう、困ってるんですよ、と言いながらも、なんだかすごく上機嫌なのだ。おそらく躁状態だったのだろう。