「流れる」幸田文

幸田文―没後10年 (KAWADE夢ムック)
映画の「流れる」がよかったので原作を読んでみた。やはり文章に感心した。幸田露伴の娘であればこれくらい書けても不思議はないのかもしれないが、まあ、みごとなものだ。
物語の背骨は単純なものだ。四十すぎの未亡人(幸田文・本人とおぼしき中年女性)が落ちぶれた芸者置屋に女中として住み込むところから始まる。そして未知の世界としての花柳界をつぶさに観察し、報告してゆく。
素人が未知の世界の入口に立つところから始まり、その世界を体験し、細部を手際よく紹介し、去ってゆくというストーリー展開はひとつの型であろう。たとえば、伊丹十三の映画なんかほとんどこの型に沿って作られている。一般の人が知らない世界を虚構のスタイルを借りて紹介する情報映画だ。
ただ、「流れる」の場合、気を引くのはこの女中の観察者が幸田露伴の娘ということだ。この素人、じつは達人なのである。犬猫の世話から始まり、買い物、掃除、食事、子供の病気の世話まで、何をやらせてもそつがない。そして、その目配り・気配りにどうしても凡庸ではないものを発揮してしまう。だから、初めはただの中年の女中として見下していた女主や出入りの芸者たちが、やがて彼女に一目置かざるを得なくなる。最後には「あなた、いったい何者なの?」と問い詰められことにもなるのだ。
これらさまざまなことが、鋭い観察眼と達意の表現力によって描かれている。そこにはただ情報の伝達だけにはとどまらない豊かな日本語の世界があり、味わいがある。今ではもう古雅と言いたくなるような懐かしい言葉や言い回しがあり、思わず酔いしれた。