「<かなしみ>と日本人」7

フウコと林檎













  • 日本人の死生観

近代日本の知識人には「死んだら無になる」という死生観が多く語られています。しかし、「死んだら無になる」という、その「無」は、決してまったく何も無くなるということではなく、大いなる宇宙・自然にまたもどる、そこから出てきたところに帰るという意味合いでの「無」です。「死んだら無になる」と<かなしみ>ながら、なおそこに、ある種の「安心」なり「慰め」なりが可能になっていた、国木田独歩の「天地悠々の哀感」がもっていた思想構造です。

また、加藤周一は「日本人は、死の残酷で劇的な非日常性を強調してこなかった」と指摘している。たとえば、稲垣足穂の言葉なんか、その代表かもしれない。「死ぬということは、襖を開けて隣の部屋へ行くようなものだ」。
「日本人にとって死ぬことは、そうたいしたことではない、いうなれば“楽になる”ことでもあるという受けとめ方です」。そういう文化なのだろうか。
実をいうと、私も同じような考え方をしている。生きることも死ぬこともそれほど変わりはない。死んだからといって何処へ行くわけでもない。ここにいるだけだ。生まれてくる前の世界、生きている今の世界、そして死んだ後の世界、すべて同じ場所だと思っている。なにも変わらないと思っているのだが、実はただそう思いたがっているだけのことなのだろう。