「<かなしみ>と日本人」6

林檎屋看板娘2 歌麿風

  • センチメンタリズムについて

われわれの「あきらめ」には、「無常に甘えた日本的な“甘い生活”賛美」みたいなところがあることは事実です。それは、それがもともとは本来の「明らめ」ではなく、「明らめ」ていない自己をとどめるものであり、そこに<かなしむ>主体を残すものであるかぎり、そこには幾分かはつねに、センチメンタリズムにならざるを得ないところがあるからです。
いってみれば、本居宣長という思想家は、そうした点をこそ擁護しようとしたのであり、仏教からすれば、愚痴としか言えないようなことを、人の本性というのはまさにそうした愚痴を言うものなのだ、「しどけない」ものなのだ、と言っています。それを仏教のように理だけで切ってしまうのは間違いだと、むしろ感傷性というものを残しながら、そこで「物のあはれ」の共有世界の倫理性を語っているわけです。

芸術作品がもともとは、感傷という大衆性・定型性・消費性を土台に、そこを出発点として磨かれ完成されていくというのは、その通りだと思う。
私の場合、四六時中、高度な芸術作品ばかりに囲まれていたいとは思わない。息が詰まりそうだ。もっと通俗的な、ゆるい大衆的なセンチメンタリズムを楽しむ生活の方がいい。