「<かなしみ>と日本人」5

金魚と猫

本居宣長がこんなことを言っている。 「天地の道理はこれこれで、人が生まれてきたゆえんはこれこれ、死ねばこれこれになるなどと、じつは決してわかりもしないことを、様々に自分自身に好いように引きつけて論じて、安心をこしらえようとしているものがある。それらはみな中国から伝わってきた儒教とか仏教のさかしら事であって、ほんとうはわれわれの認識では知りえないことであるから、すべて想像で語っている無益の空論なのだ」

この世の真理や、死後のことを断定的に語っている人を見たら、まずインチキだと思って間違いないということだな。仏教のエッセンス「この世はうつろいゆくもの」というのも、じつはデタラメだ。本当っぽく思えるけど、デタラメだ。でも、こんな簡単なことがなかなか実践できない。つい世迷い言を信じたくなる。なぜか? 世迷い言って、なんだか知らないけど楽しそうなんだ。

白鳥は、いうなれば、死とは何か、人は死んだらどうなるのか、また、そうした死を否応なく引きうけざるを得ない人の生とは何か、といったようなことだけを考え続けた文学者ということができます。『正宗白鳥全集』という、全三十巻の浩瀚な全集が出版されていますが、それらは極端にいえば、そうしたことだけを求め続けた結果の蓄積です。(中略)
過激なほどの「真実」「本当」を追求する態度で、あれも「つまらん」、これも「つまらん」「嘘っぱちだ」「ごまかしだ」と否定を重ねる仕方から、「ニヒリスト」とも言われていたのですが、その白鳥が、死を前にして「アーメン」と祈って死んでいきます。

白鳥ほどの虚無の人が、晩年にキリスト教に帰依したというのはどういことなのか? これについてはあまり性急に答えを出さないほうがいいだろう。