「<かなしみ>と日本人」3

春の嵐









われわれ人間は、たしかに小動物や草木や星と同じように自然(おのずから)の働きの中にあるわけですが、ただ、われわれの場合には、自然の働きの中に完全に埋没し、一体化しているわけではありません。(中略)われわれには簡単に捨てることのできない「みずから」という思い、この「私」、この「自分」という意識があります。
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「私」という存在は、大河の一滴ではあるが、その一滴は、唯一無二、一回かぎりの存在であるという認識には<かなしみ>があります。

鴎外は、生きる基本姿勢に一貫して諦念ということを置いた文学者ですが、彼は同時に「足るを知るということが、自分にはできない。自分は永遠なる不平家である」とも言い続けています。その諦念は、決して澄みかえった端然たる境地といったものではなく、そうした不平・不満の「自分」をとどめてのものであったということです。

漱石は、晩年「則天去私」ということを言い出してきます。私を去って天に則るという、この考え方は、たしかにひとつの「あきらめ」なのですが、そう言いながら、もう一方では、我執に紙一重の「自己本位」ということも手放していません。

結局、鴎外も漱石も「自分」を捨て去ることができない。「自分をむなしくする」、そして心の平安を得て人生を全うするという理想にはほど遠かったわけだ。でも、生身の人間なら当たり前のことだろう。神仏でもないかぎり、そんな理想的な境地で生き死にすることなんてできるわけがない。
ただ、大事なことは「鴎外・漱石の作品に、深い<かなしみ>のトーンが湛えられているゆえんはそこにある」ということだ。
宮沢賢治については、また明日。