「兄・吉行淳之介と私」吉行和子

平成六年の七月に吉行淳之介は亡くなるのだが、その葬式のときに母親(あぐり)がお棺の中の淳之介に小さな声で何事か話しかけている。「それで、あのことだけどね」と言っている。お客が来たので和子が母をどけても、その場所が空くと、また側に行って話の続きをしている。
吉行が亡くなる数年前から吉行家では母親に昔の思い出話をさせるというのが習慣になっていたらしい。それは老化防止のためでもあった。あるとき、岡山の吉行家の先祖が小作人だったのか、土地持ちだったのかということで話がもつれて、なかなか決着がつかず、話はそのままになってしまった。
その後、母親が岡山に電話して調べ、ある程度のことがわかった。それで病院に見舞いに行ったときに報告しようとしたら、折あしく、寝ついたばかりの淳之介に会えなかった。起こしてはいけないと遠慮して病室にも入らず戻って来た。それが最後になってしまった。
母は、お棺の中の息子に「それで、あのことだけどね・・・」と先日の報告をしているのである。

兄・淳之介と私

兄・淳之介と私