野呂邦暢「諫早菖蒲日記」

この本を読むのは5回目か、6回目。良い小説は何度読んでもいい。
幕末、九州諫早藩の砲術指南藤原作平太の娘、15歳の志津が主人公であるが、本当は諫早という土地そのものがこの小説の主人公なのであろう。故郷に対する作者の愛情は樹木の一本、草花の花弁一枚だっておろそかにしない。船の帆をはためかす風、川岸に打ち寄せるさざ波、裏庭に咲く一茎の菖蒲、それが諫早の土地のものなら抱きしめるような愛情で描いている。
主人公の少女、志津は好奇心が強く、利発な娘である。その家庭に多少の波風は立つものの、おおむね平凡な生活が続く。大きな事件もドラマチックな展開もない。退屈に思える日常がどうしてこれほど感動的なのだろうか。それを細かく分析するのは評論家にでもまかせるとして、私はしばらく読後の幸福感に浸っていたい。
追記:文春文庫版には短篇「花火」が収録されている。これは「諫早菖蒲日記」の後日談、エピローグにもなっている。本編を読了後に、この短篇を読むと格別の味わいがある。