茨城県南部 (神栖市)の地震 1

神栖市掘割


3月11日 金曜日の午後2時45分頃、神栖市の図書館にいたら小さく揺れ始めた。それが次第に大きくなっていく。そのうちに止まるだろうと思っていると、逆にどんどん大きくなっていく。館内の人たちがぞろぞろ外に出ていくので後についていくと、ガラスが割れる音がした。その乾いた破裂音のせいで、それまで静かだった人たちがざわめきだした。
外に出るとみんな携帯電話をかけている。家並の向こうに鹿島コンビナートの煙突が見え、その煙突の先から真赤な火炎が上がっている。黒煙も立ち昇っている。これはただ事ではないという思いが強くなり、携帯電話で家に連絡するが誰も出ない。いや、繋がらない。胸騒ぎがしてすぐに駐車場に向かい、車を発進させた。通りへ出ると信号が作動していない。国道124号線の交通量は多くて、心なしかどの車も慌てているように見える。それでも交差点では左右を確認しながら徐行していく。
家に着くと、玄関の壁の一部が崩れていた。家の中は家財道具が散乱し、タンスの引き出しが飛び出している。二階の自室に行くと、本、雑誌、書類が足の踏み場もないほど散乱している。ストーブの上に置いヤカンが転がって床が濡れていた。パソコンのモニターは横を向いている。茫然としてると、またぐらっときた。蛍光灯が天井にぶつかるほどの勢いで揺れ出したので慌てて階段を駆け降りる。靴もはかずに庭に飛び出ると、家がぐらぐら揺れて瓦がばらばら崩れ落ちていく。ああ、これはもう駄目だ。そう思いながらもどうしようもない。立っているのもやっとだ(いま振り返ると、この2回目の揺れの方が大きかったようだ)。
わが家は農家の集落の中にある。親戚の家の様子を見に行く途中、周囲の家々を見ると、あちこちで屋根瓦が落ちている。それでも家屋倒壊や人的被害はないようで、農家の人たちは門の外に出て立ち話をしていた。みんなそれほど深刻な表情をしていない。物静かにぼそぼそしゃべっている。ただ、どこかの婆さんが一人、興奮して大きな声で何か言っていた。やがて、わが家でも母と姉と近所の人が集まり、こんな大きな地震は初めてだ、もしお昼や夕食時だったらきっと大火事になっていただろうと言う。伯父さんもやってきて、最大級の地震だと言った。まあ、命が無事ならそれでいいよ、と慰めの言葉を掛け合うしかない。
夕方、食糧を確保しようとスーパーに行くが閉まっている。コンビニも開いていない。あちこちで道路が陥没し、通行止めになっている。夜になると、電気も水道も使えないことに改めて不自由を味わう。何もできない。ご飯は炊けないし、風呂にも入れない。電話も通じない。ローソクを立て、買い置きのお茶菓子を齧り、ペットボトルのお茶で胃袋に流し込む。ただ、リンゴをむいて食べたのが旨かった。二階の自室は危険なので、母屋の座敷に寝ることした。安普請の二階家よりも、築80年の農家の母屋の方が頑丈なのだ。とにかく、真っ暗な部屋の中でラジオを聞いて時間が過ぎていくのをじっと待つ。夜が明けるまでの時間がやたらに長く感じた。なにしろ絶えず余震が襲ってくるので眠れたものじゃない。ほとんど10分おきくらいにぐらぐら揺れるのだ。震度は3、4くらいだったろうか。母屋の座敷は広く、隙間風が入って来るのでやたらと寒い。石油ストーブをつけ、毛布を被ってもそれでも寒く感じる(ストーブのない部屋の中で3℃くらい)。深夜、小用に庭に出ると、月は明るく星が降るように輝いていた。
(3月11日の地震初日はこんな感じ) つづく。
写真は神栖市掘割。3月13日午後2時半頃、撮影。