武田花「犬の足あと 猫のひげ」

犬の足あと猫のひげ (中公文庫)

犬の足あと猫のひげ (中公文庫)

複数の単行本から写真と文章を抜粋して、一冊の文庫本にまとめたフォトエッセイ集。
武田花の文章の魅力をどう伝えたらいいだろう。べつに流麗な名文というわけではない。抒情的でもなく、簡潔で達意の文章というわけでもない。どっちかというと普段着のおしゃべりに近い。肩の凝らない平俗な語り口だ。書かれている内容にしても、べつにどうってことはない。都心や地方の海岸で写真を撮っていたときの小さな出来事を数行でスケッチしただけのものにすぎない。
それなのに妙に気を引かれる。武田花のキャラクターの魅力だろうか? 天然というか、イノセントな存在感。もうすっかりおばさんなのにその言動がどこか童女のようだ。また、臆病なのに無防備なところもある。深沢七郎や内田百鬼園に似てなくもないが、やはりちょっと違う。
奇妙なことに、この人がカメラを手にして路地に入っていくと、その先々で酔っぱらった男たちが路上に寝転がっている。そして、大抵の場合かれらはゲロを吐いて倒れている。下手に起こすとゲロを喉に詰まらせて死んでしまうかもしれないので、かれらを跨いでさらに路地奥へと猫の姿を追い求めていく。
「俺を馬鹿にするんじゃねえぞお。酒は友達だあ」と酔っ払いがわめいている。
「おばはん、死ぬぞ」とトラック運転手が怒鳴る。
「なんだ、このスケは」とヤクザがどすの利いた声で言う。
「ねえねえ、俺のヌードも撮ってよお」とニッカーボッカー姿の酔っ払いが、にぃーっと笑う。
「包丁とナイフ買ってきたんだよお」と堤防に腰掛けた女が目を剥いて何度も繰り返す。
「このスベタ!」と九十度以上も腰の曲がった白髪振り乱したお婆さんがすれ違いざまに吐き捨てる。
どれもこれも日常風景の一部を切り取ったシーンなのだが、しばらく経つと白昼夢の断片を見せられているような気がしてくる。くすくす笑っているうちに、リアルだった現実がいつの間にか幻燈に変わってしまったような気もする。なんとも不思議な世界なのだ。