「夜の靴」横光利一

夜の靴・微笑 (講談社文芸文庫)

夜の靴・微笑 (講談社文芸文庫)

好きな本は何度も読み返す。この本はかなり退屈な部分がある。それでも、何年かに一度は必ず読み返したくなる。
「夜の靴」は、横光が昭和二十年八月、山形県鶴岡市近郊の農家に疎開したときの出来事を日記風に綴ったものである。敗戦後の秋から冬、農村で見聞きした出来事、農民たちの暮らしぶり、個性的な人々を身近に観察して生き生きと描き出している。
その中でちょっと気に入っている場面があるので、紹介する。横光が部屋を借りている農家の主人がある日、酔っ払って夜更けに歌を歌い出す。親戚の家で祝言があった夜である。親父はひとりで歌っているのだが、隣に寝ている奥さんにも歌えと強要する。横光は薄い壁越しに耳を澄まし、まさか歌うまいと思っていると、この奥さんが急に歌い出した。
「おおばこ来たかやと・・・たんぼのはんずれまで、出てみたば・・・」
親父も予期に反した妻の歌に虚を衝かれた形で、しばらくはおとなしくしているのだが、やがて、「うまい、うまい、うまい」と手を叩きはじめる。そうして何度も手を叩き、景気づけているのだが、やがてこらえ切れなくなって自らも大声で歌い始める・・・。晩秋の夜更け、農家の夫婦が枕を並べて天井を向き、声を揃えて歌を歌うというのは、なんだか知らないがやけにおかしくて、心が温まる。