「<かなしみ>と日本人」1

春が聞こえる


昨年、NHKラジオ(こころをよむシリーズ)で放送された竹内整一「<かなしみ>と日本人」を聴いた。そのとき、いろいろ考えさせられることが多くて、もう一度きちんと聴き直してみたいと思っていた。今回、録音したテープを聴き返し、忘れないうちにいくつかポイントを書き留めておくことにした(自分の中でまだ消化しきれないこともあるので、引用が多くなりそうだ)。とりあえず、今年のゴールデンウィークはこれに集中する。

  • 物語を語れ

「死の医学」の提唱者・柳田邦男さんは、物語を語れ、一人ひとりの物語を創れと言っています。死という事態を前にしたとき、それまでの人生のバラバラの出来事をひとつのストーリーにまとめて物語にし、『ああ、自分の人生ってこういう人生だった』と思いえたときに、人は、みずからの死を受け入れやすくなるのだと言っています。

人間の生が、死によって無になるかどうかわからない。しかし虚無にさらされて衰弱していく心を、物語によって温めることができるかもしれない。少なくとも自分の人生に喜びや悲しみがあり、春夏秋冬があったと思い直すことで、死・虚無の恐怖・ショックを和らげることができるかもしれない。
考えてみれば、宗教は民族単位の壮大な物語だ。死を受け入れやすくするために有効に機能しているわけだ。

  • 人生を要約してはいけない

「要するに、人生なんて無意味なものだ。しょせん、人間なんてこんなもんだ。結局、人生はあんなもんだ。つまるところ、人間は・・・」人はよく勢いにまかせて、こうした言い方をする。たしかに、これは一見、剛毅で潔い言い方のように思える。しかし、本当は弱さなんだ。それは何事かを諦めようとしているだけだ。人間の生が本当に無意味なものかどうか、本気で考えてみることは無駄なことではないだろう。

西田幾多郎という哲学者は、自分の娘を亡くした悲しみのなかで、「人生はこれまでのものだ」とはやり過ごさないで、人生・悲哀の「深い意味」を考えようとした人らしい。
付記:要約ことばをもうひとつ。「結果がすべてだ」という言い方も、なんだか強面の言葉として世の中に幅を利かせている。本当に結果がすべてなら、必ず死ぬことになっている人間の生はすべて無意味ということになる。