「儒教とは何か」加地伸行

モスバーガー

儒教と言えば、一般的には、ただ単に倫理道徳としてしか理解されず、しかも古い封建的なものという否定のおまけまでついているのが現状である」
著者の冒頭の言葉である。この後、儒教の概論書が少ないだの、その数少ない概論書にしても碌なものがないだの、ずいぶん憤慨している様子である。
私の場合、もし自分の身近に儒教の本を読んだり、会話の中で論語の一節を口走ったりする人がいたとしたら、あまり近づきたくないにちがいない。これはうまく説明できないが、そういう空気がたしかにあるだろうと思う。
にもかかわらず、やはり儒教が気になる。数千年にわたって東北アジアの文化に根付いてきた儒教という思想のメカニズムを知りたいのだ。
儒教についてよく言われるのは、為政者にとって民衆をコントロールするのに儒教という倫理道徳が好都合なのだという考え方である。しかし、それが本当だとしても、それだけで数千年にわたって生き続けられるものだろうか。おそらく上から押し付けられるものだけではなく、下から希求されるだけの魅力があるからこそ数千年も続いてきたにちがいないのだ。
それほど人々を引きつけた力はいったい何なのか? 特に、東北アジア人に受け入れられた理由は何なのか? しかも数千年の長い時間を経てもなお受け入れられ続けているのはなぜなのか? 
著者によればそのキーワードは「宗教性」ということらしい。儒教には2つの面がある。1つは為政者によって制度化された礼教性であり、もう1つは大衆によって支持されてきた宗教性であるという。

儒教は、
1 一族が亡き祖先を追慕して祭ること、すなわち招魂再生儀礼
2 生きてある親につくすこと。
3 先祖以来の生命を伝えるため子孫を生むこと。
この三者をあわせて「孝」と称し、儒教理論の根本とした。
孝とは、先祖という過去、親という現在、子孫という未来にわたって生命が連続することに基づく思想なのであって、現在の親だけを対象とするものではない。
すると、祖霊は招魂儀礼によって、このなつかしい現世に再び帰ってくることができるし、逆に、現在のわれわれをして遠い過去にも生きていたことを知らしめる。現在、われわれが存在すること、すなわち逆に言えば、祖先があるということは、われわれがたとえば百年前、あるいはさらに千年前、万年前に確実にどこかで個体として存在し生きていたことを意味する。このように儒教における孝とは、生命の連続を主張する生命論なのである。

長くなってしまって申し訳ない。読んだ本について短くまとめるってむずかしいね。