だれの語り口?

いいとしをして、それでも淋しさに、昼ごろ、ふらと外へ出て、さて何のあても無し、路の石塊を一つ蹴ってころころ転がし、また歩いていって、そいつをそっと蹴ってころころ転がし、ふと気がつくと、二、三丁ひとつの石塊を蹴っては追って、追いついては、また蹴って転がし、両手を帯のあいだにはさんで、白痴の如く歩いているのだ。・・・中略・・・よいしょ、と小さい声で言ってみて、路のまんなかの水たまりを跳び越す。水たまりには秋の青空が写って、白い雲がゆるやかに流れている。水たまり、きれいだなあと思う。ほっと重荷がおりて笑いたくなり、この小さい水たまりの在るうちは、私の芸術も拠りどころが在る。この水たまりを忘れずに置こう。

誰の文章か、おわかりだろうか? 罫線で囲んで引用であることを明示しなければ、もしかしたら一般人が書いた文章と思ってしまうのではないだろうか。それとも、やはり虚構の世界に読者を引っ張り込もうとする作者の引力を感じるだろうか。
プロが書いた文章、なんでもない日常の些事、情景描写などを、自分の文章に紛れ込ませて、その文章がどの程度浮き上がるものか、ちょっと試してみたくなる。ちなみに、上記の文章は太宰治「鷗」からの抜粋である。
新潮文庫版の短編集「きりぎりす」を久しぶりに再読した。やはり二十歳の頃とは印象がちがう。昔は「燈籠」や「鷗」や「きりぎりす」が好きだった。でも、いまはちがう。「畜犬談」がよかった。太宰に限らないが、強い口調の告白文がどうも苦手なのだ。それよりも身辺の雑事を軽く、ユーモラスに語る文章が好きだ。それから、当時の太宰の文学観を書簡形式で表した「風の便り」などもおもしろく読めた。また、「佐渡」の無愛想な土地の人々のスケッチが興味深かった。どういうわけか、無愛想な様子を描写することによって、その人物がリアルに立ち上がってくる。さらに「黄金風景」のラスト。孤立無援のつもりの太宰がじつは身近な人よって愛されていたことに気づく。この甘さがいい。