カレル・チャペック「園芸家12ヵ月」

園芸家12カ月 (中公文庫)

園芸家12カ月 (中公文庫)

まずはチャペック氏の語り口。

園芸家の金科玉条に従うと、バラの芽接ぎは七月にやる。普通は、こんなぐあいにやる。
まず、台木として野生のバラを一株、それから大量の穂と、芽接ぎナイフ、あるいは剪定ナイフを一挺用意する。すべてがそろったら、親指の腹でナイフの切れ味をしらべる。切れ味が十分であれば、ナイフは親指を切って、ポッカリ裂けた赤い傷口をのこす。つぎに、そのまわりに、二、三メートルの包帯をぐるぐる巻きつける。すると、その指に、まるまるとふくらんだ、けっこう大きな蕾がひとつできる。これを称してバラの芽接ぎという。

この本は園芸について技術的なことが書いてあるわけではない。面白おかしく、ちょっと皮肉なユーモアを交えて園芸家の生態を語っているのだ。初めは軽い気持ちで手を出しただけなのに、気がつくと園芸熱に冒され、やがて手の施しようのないほどのマニア、偏執狂へと変じてしまうものらしい。その中にはバラマニア、高山植物狂、シャボテン信徒、ダリア党などという変種が存在するという。
庭土と花の手入れに孤軍奮闘する園芸家を笑いながら、その実、チャペックは園芸を趣味として生きる人の幸福を語っている。たとえば、園芸を始めた人はものの考え方がすっかり変わってしまうという。雨が降ると、自分が手入れしている庭に雨が降っている、と思う。日が照れば、ただ晴れているのではない。自分が育成した植物の葉、一枚一枚に日が差しているのだ。
やがてその思いは地表の目に見える世界だけに留まらなくなる。たとえば、世間では秋から冬にかけて自然は冬眠するというけど、じつはそうではない。土の中ではすでに春の生命の準備が始まっている。根が下に向かって伸び、球根がふくらみ、新しい芽が殖えている。地上の風景は冬枯れているけれども、土の下ではすでに春の番組が立案され、準備が進んでいるという。「木や潅木が秋に裸になるのは、視覚上のイリュージョンにすぎない。木も潅木も、翌春ひろげて伸ばすものを、枝という枝にぎっしりばらまいているのだ」
さらにチャペックは語る。「死は存在しない。眠りさえも存在しない。わたしたちはただ、ひとつの季節から他の季節に育つだけだ」
この小品を読んで以来、私はチャペック教の敬虔な信徒となってしまった。(注:まだ園芸熱には執りつかれていない)