野呂邦暢の東京

昭和31年(1956年)の秋、野呂邦暢は故郷諫早を後にして東京に向かう。二十歳になって間もなくのことだ。
その年の3月に京都大学の受験に失敗し、その後、浪人するつもりで京都にとどまったが、その間に父が事業で失敗し、入院してしまう。結局、大学受験を断念して諫早に戻るも職が得られず、故郷を逃げ出すように上京したのだった。
東京に着いた野呂はすぐに仕事を見つけなければならなかった。働ければなんでもよかった。そうして就いた仕事はガソリンスタンドの店員だった。
決して楽な暮らしではなかったにもかかわらず、野呂は都会の生活に生き返ったような思いを味わっていたという。月に2回しかない休日は早稲田界隈や中央線沿線の古本屋街を歩き回った。外国映画を観るために上野や中野の名画座にも通った。勤め先のガソリンスタンドは鶯谷にあり、宿直した翌日は午後四時にひけると、国電沿いに新橋まで歩いたこともあったという。終日、ドラム缶と格闘した後にである。
ある日曜日、野呂は中央線沿線の古本屋を東から西へ順に漁っていた。高円寺駅のすぐ近くにある古本屋で、均一本の箱をかきまわしていると、一冊の本が目にとまった。カミュの「結婚」というエッセイ集である。野呂はその本を買わなかった。しかし、扉の裏の二行のエピグラムが脳裏に焼きついた。それはヘルダーリンの詩であった。
――― しかし汝、汝は生まれた
     澄んだ日の光のために ―――
強い光で骨の髄まで照らし出された気がしたという。見なれた高円寺駅周辺の風景が別世界のように思えたとも記している。
翌年の春、野呂は突然帰郷する。そして、6月には佐世保陸上自衛隊に入隊してしまう。後に、この体験を「草のつるぎ」に書き、第70回芥川賞を受賞する。東京を去ってから17年後のことである。