宮沢章夫「小走りの人」

風車 5

先週に引き続き、宮沢章夫の文章を紹介する。「茫然とする技術」をぱらぱらめくっていたら、「小走りの人」というタイトルが目に付いた。面白かったので抜粋してみたい。

人は、どういった理由から、「走る」ことになったのだろう。狩猟民族はわかるのだ。獲物を捕獲するのに、走らなければならない事情があったはずで、とろとろしていたら、逃げられてしまう。逆に、捕まえようと思った獲物に反撃され、追われることもあっただろう。
走らなければいけない。
必死だ。死にものぐるいだ。ちょっとでもスピードをゆるめれば襲われる。生死に関わる問題である。狩猟民族は走った。
では、農耕民族はどうだったのだろう。なにか走るべき理由が存在しただろうか。
「ものすごいスピードで遠くにある芋を取りに行く」
そんな必要があっただろうか。
「広大な農作地の向こう側に鍬を置き忘れたので走って取りに行く」
なにか間抜けさが漂ってないか?

なぜ農耕民族は走ることになったのか? 大きな問題である。私も考えてみた。
「猛スピードで田んぼの四隅に案山子を設置する」
「畑から顔を出したモグラを全力疾走で追いかける」
「農民一揆で歩いていたが盛り上がらないので景気づけに走り出す」
まだまだ何か出てきそうだ。