「或る聖書」小川国夫

仔羊の頸には綱がついていて、これを持った少年が固い面みたいな顔をしていた。瞳が釣り上がっていた。アイロザが階段を下りて行くと、少年はひざまずいた。アイロザは眩しいほど白い羊を見ていた。そして、ナイフを出して綱を切ると、少年が手早く束ねた。アイロザは跳ねようとする仔羊の臭いをかぎながら、横抱きにして階段を上がった。まるでこの世から羊を奪い去る恰好だった。人々の眼が縋りついてきた。それをさえぎるように司祭たちが幕屋から出てきた。彼らの陰へ入ると、アイロザは羊を床に下ろして、うしろから頸を抱えて、喉を切った。羊は幕屋へ跳びこんだ。広い大理石の床で、羊は行きどころがない様子だった。喉からは束になって血が吹き出していた。羊は体を傾けて旋回し、血は小さな音をたてて床に注がれた。羊が倒れてからも、血はしばらく流れ出ていた。羊の痙攣がだんだん緩んで行くのを見守っていたのは、大司祭と司祭たち全部で十八人だった。

或る聖書 (1973年)
二十代の頃、小川国夫の文章に魅かれて、次から次へと本を買い漁ったことがある。正直に言えばストーリーは退屈だった。読んでいる間、ほとんど苦痛だった。それでもむさぼり読んだのは、やはり文章に力があったからだ。小川が紡ぎ出す文章には他のどの作家にも求められない魅力があったのだ。
残念ながら、もう小川国夫の新作を読むことはできない。   今年4月8日、肺炎で亡くなった。合掌。