芳雅堂

古本

二十年前、東京・阿佐ヶ谷に住んでいた。1980年代のことだ。阿佐ヶ谷北だったので、早稲田通りに近かった。でも、早稲田通りは駅の繁華街とは逆方向だったので、めったに足を向けなかった。
あるとき暇だったので、早稲田通りを高円寺方面へ散歩したことがあった。すると道路沿いに小さな古本屋があった。店構えはお世辞にも立派とは言えない。昔の駄菓子屋みたいな家屋だ。がらがらとガラス戸を横に引っ張って中に入る。
最初は冷やかし半分だった。どうせゴミのような本ばかりだろうと高をくくっていた。でも、棚に並べてある本を見て驚いた。粒が揃っている。一目見てすぐにわかった。目線の高さに並べられている本はどれも厳選されたものばかりだ。戦前・戦後の私小説作家たちの本が多かったが、詩人のエッセイ集や詩集も充実していた。そして値段を見てさらに驚いた。他の店より二割も安い。思わず店の帳場に目をやると、眉の濃い達磨のようなオヤジが座っている。そしてレジスターの横には大きな三毛猫が腹這いになっていた。
その日以来、私はこの店の常連になった。いや、冷やかしの常連である。当時は金がなかった(今も同じだが)。だから、一時間以上も本を吟味して、結局何も買わずに店を出ることが多かったのだ。それでも毎週のように足を運び、たまに安い本を一冊だけ購入していた。
それから何年くらい経っただろう。私はすでに阿佐ヶ谷から練馬に引っ越し、その古本屋とは疎遠になっていた。ある日、新宿の紀伊国屋書店で雑誌をめくっていたときのことだ。グラビアページに見覚えのある顔があった。眉の濃い、達磨のような顔だ。あれ?と思った。どうして古本屋のオヤジの写真が文芸誌に載っているのだろう?
写真の下には「直木賞作家・出久根達郎」と記されていた。

佃島ふたり書房 (講談社文庫)

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